Kazuhisa Baba

皆さんこんにちは、馬場和久です。延岡市内でも旧南方村(南方村は私の生まれる4年前に延岡市に併合されたばかり)の東端に位置する大貫町に生まれ、幼少期は家のすぐ前にある大瀬川や近くの里山、田んぼなどをテリトリーに、複数のガキ大将らとつるんで野山を駆けまわるワンパク小僧でした。 今の体型(大学時代より20キロ増)からは想像だにできないでしょうが、中学、高校、大学と軟式テニス部に所属し、部活命の毎日でした。高校時代には県大会で3位に入ったこともあるのが、プチ自慢です。大学時代は休部してバイトに明け暮れた時期もありましたが…。 これまでの人生を振り返ると「真っ直ぐ目標に向かって」という経験は皆無で、寄り道ばかりでした。大学は2浪しましたし、卒業時もマスコミの入社試験に失敗し就職浪人となり、やむを得ず地元に戻ってきました。帰省してすぐにバイト感覚で面接を受けたアヅマヤ百貨店に正社員として入社することになりましたが、2年目の途中に募集が出ていた夕刊デイリー新聞社の記者採用試験に合格し転職と、最初の激動期でした。 入社後も、校閲からスタートしスポーツ担当、警察・消防担当、宮崎支社勤務、行政担当、経済関係担当、スポーツ面整理デスク、日向支社勤務と3〜4年間隔で担当が変わりました。その間、労組の組合長や、電算システム導入時の責任者なども歴任しましたが、特に後半は紙の時代の行く末に不安を抱いていた同僚らと上司に様々な変革案を提案するも、いっこうに動く気配がないことにイライラした時期が続いていました。 そんな折、夕刊デイリーのWEBページを立ち上げてくれた会社から新会社の役員にとのお誘いがあり、悩んだ末に23年間勤務した夕刊デイリーを退職することになりました。ところがこの決断が第2の激動期の始まりでした。その新会社のオーナーが早々と撤退したため業務が立ちゆかなくなり、2年目の途中にその会社から離れ、一緒にデイリーを辞めて参加していた同僚らと創業したのが今の0982株式会社です。 デイリー時代からのぼりざるフェスタ実行委員を務めるなど、地域づくり(まちづくり・まちおこし)活動にも参画していましたが、本格的にのめり込んだのは日向支社時代です。取材も兼ねて参加した「日向市市民活動団体リーダー養成塾」の一期生としてやきそばのまち・静岡県富士宮市と、野外ジャズフェスを開催していた横浜市旭区の視察研修を機に、塾生を中心としたメンバーで「魅力のまち発掘プロジェクト・すこっぷ」を結成し、日向市周辺で食と音楽を活かしたまちづくりをスタートさせました。 デイリー退社後は、延岡でも食を活かしたまちおこしができないかと考え、市役所や観光協会などに相談してスタートしたのが「NAN BAN TRY(のちの延岡発祥チキン南蛮党)」の活動でした。延岡商工会議所の「ひむかのくに えんぱく」の立ち上げに関わり、アウトドア天国の案内人を集めたノベ☆スタ(ひむか感動体験ワールド)の設立をプロデュースしたのも同時期でした。 南蛮党の代表は5年目で辞任しましたが、その他の活動は継続中で今に至っております。市民協働まちづくりセンター事務局長の福田正憲さんはデイリー時代の上司ですが、福田さんが常々口にしている「まちづくり、まちおこしなんておこがましい。俺達は街の財産を使って自分たちが楽しいと思うことをやっているだけ。まちおこしではなく、〝まち遊び〟だ」という言葉が好きで、自分のできる範囲で〝まち遊び〟にまい進している日々です。